シンガポールの会計・財務アドバイザリー

会計経理の力で戦国大名となった武将3人。その人生から学ぶべきこと。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

近代ドイツ帝国樹立の立役者である鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの名言にあるように、優れた人間は歴史的事実から真理を学ぶもの。

日本の歴史というと、華々しく戦った歴戦の武将や歴史を転換した政治家や志士たち、新しくそして永遠の美を生み出した芸術家たちが注目を浴びがちですが、中には「経理の力」で世に出た偉人がいます。

会計、経理や財務の知識で日々戦う会計人にとって、会計の力でのし上がった歴史上の偉人たちの人生を学ぶことは、非常に有益ではないでしょうか。

今回は、歴史ファンに人気の戦国時代から経理能力が卓越した3人の武将を紹介したいと思います。

第3位 天下獲りの「天才ディレクター」

石田三成(1560年〜1600年)

石田三成(出典:wikipedia)

石田三成は秀吉子飼いの戦国武将ですが、その天下獲りと豊臣政権運営を実務の面から支えたディレクターであり、稀代のプロジェクトプランナーといえます。

三成の合理的で怜悧な頭脳については数々の逸話がありますが、とりわけ有名なのは秀吉と茶の湯のエピソードです。

幼時、石田三成は寺の小姓をしていましたが、たまたま秀吉の軍勢がやってきます。

秀吉はのどが渇いており、お茶を所望しましたが、これに対して三成少年は、初めはぬるま湯、そして徐々に温かいお茶を出していき、喉の乾きが癒えた頃合いに熱々のお茶を出しました。

この合理的なお茶の出し方に感激した秀吉はまだ幼かった三成を小姓として取り立てることにしました。

三成の合理的な姿勢を示すエピソードとしてあまりにも有名ですね。

その後三成は、豊臣の天下取りをロジスティックや経営面など裏方で支え、秀吉の勢力拡大に貢献します。

豊臣政権樹立後は事務方官僚の筆頭として、出来たてホヤホヤの巨大組織の構築から運営を一手に引き受けます。現代で言えば、天才的な創業者たる秀吉を支える有能なCFOという役回りでしょう。

秀吉亡き後は、五奉行の筆頭となります。

五奉行とは、秀吉の遺言により、遺児の秀頼を支えるために定められた徳川政権の官職であり、実務派官僚の大名である石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家が任官します。

この五奉行の上に五大老という官職が置かれ、重鎮大名である徳川家康、毛利輝元、上杉謙信、前田利家、宇喜多秀家という100万石以上を有する大大名がついています。五大老が最高意思決定機関、五奉行が最高事務遂行機関という役割でした。

石田三成は、豊臣家からの天下奪取という野心を隠さない徳川家康を抑え込むため、反家康勢力の集結を企図。五大老の毛利輝元や上杉謙信、宇喜多秀家などを説得し、当時の日本における軍事力の過半数以上を確保することに成功します。

ところが天の味方を得ることはできず、プロジェクトの集大成である関ヶ原の戦いにてたった1日で大敗を喫し、「敗戦の将、兵を語る」ことも叶わず、斬首によりこの世から退場します。

250年続いた徳川の歴史の中で、三成は徳川に敵対した極悪人とされてしまったため、歴史上の愚か者としての評価が定着してしまいましたが、結果はどうあれ、日本を二分する歴史的イベントのプロジェクトプランナーとして、近年は再評価もされています。

大老が100万石超の領地を保有する戦闘力を備えた大大名であった一方で、奉行は数万石~20万石程度の領地しか有さず、そのため奉行たちはあくまでもその個人的能力によって活躍することができたと考えられます。

石田三成の偉大さは、戦功がすべてであった戦国時代において、実務の才で戦国大名にのし上がったことでしょう。

秀吉存命中は、石田三成が秀吉に次ぐ最大権力者と言っても過言ではないほど権限を委譲されています。

おそらく、石田三成の最大の不幸は、豊臣政権のCFOであったことに由来するかもしれません。

というのも、政権を円滑に運営するためには、他の武将に対してコストカットやコストの負担を強い、各大名の働きについて秀吉へ適正に報告、必要によっては大名を罰するなど、秀吉存命中は嫌われ仕事をせざるを得ませんでした。

三成が失敗した理由は大きく2つあると思われます。

まず1つめは、円滑の組織運営のため、妥協を許さない姿勢が、当時の諸大名から嫌われていたようです。カオスの時代であった戦国の世において、平和を維持し、定着させるために合理的な組織運営手法を持ち込もうとした石田三成は、おそらく多くの武断派大名に嫌われたことでしょう。同じく豊臣恩顧の大名の中で、武闘派の加藤清正や福島正家などは、「三成に従うのが嫌だ」という理由により徳川家についてしまいます。

さながら、イケイケ営業担当役員が幅をきかせる会社において、厳格なコンプライアンス制度を根付かせようとするCFOのような役割だったのでしょう。

また、豊臣家の天下取りの過程における数々の戦さにおいて、戦国武将風の華々しい活躍が薄いことも要因と言われています。20万石程度の小振りな大名に過ぎなかったことも不幸の一因。

関ヶ原において日本の全戦闘力の半分を指揮することになりますが、小粒の大名で、過去に戦さで成果をだしていなければ、味方の武将から信頼と正当性を勝ち得るのは難しかったのではないでしょうか。

力がモノを言う世の中で、理財、経済の重要性を理解する創業社長たる豊臣秀吉の下で働くことができた三成は、運がよかったかもしれません。

ただし、現代においても、会計経理職やCFOなどは参謀役に徹し、他の部門からの協調及び理解を得ることが不可欠でしょう。

第2位 徳川幕府の「初代CFO」

大久保長安(1545年〜1613年)

大久保長安(出典:戦国ガイド)

大久保長安は、徳川幕府における初代勘定奉行です。

父親は武田信玄のお抱え猿楽師でありましたが、長安は、その後武田家の家臣として取り立てられ、戦国の荒波へと漕ぎ出します。

武田家では金山の開発や徴税(税務)を担当することになり、長安のキャリアは奇しくも事業運営や会計税務実務から始まります。

残念ながら、武田信玄は京都上洛の途中に病没してしまいます。

その後、武田家の家督を継いだのは勝頼ですが、長安は勝頼に疎まれていたようで、武田家の窓際族に追いやられていたようです。

ところが、人生とはわからないもの。

このことが幸いし、長篠の戦い以降の武田家の転落に巻き込まれずに済んだようです。長安は織田家の攻撃による武田家滅亡後、自身の金山開発の才を売り込んで徳川家康に士官します。

徳川家の家中で、長安は実務官僚として順調に出世。関東代官として事務差配を一手に引き受けることになります。

徳川家が天下を取ることになる関ヶ原の戦い以降は、豊臣家から奪取した数々の資産接収、管理を徳川家康から任され、佐渡奉行から始まり財務大臣に相当する勘定奉行から、政治のトップである老中まで異例の出世、その後250年続く徳川幕府の組織的基盤を築きます。

さらに長安は、自分の息子たちを池田輝政や伊達政宗など、徳川政権における有力大名の娘を嫁がせることでその地位を盤石なものとし、徳川直轄領150万石の実質的差配者として我が世の春を謳歌しました。

しかし、栄華は永きに渡り続かないのは世の常。

金山からの金が徐々に取れなくなり収入が先細るにつれて家康の寵愛も失い、数々の代官職を罷免され、69歳で死去します。

さらに悲惨なことに、長安の死後、不正蓄財を問われた子孫は、全員処刑されてしまいます。

徳川家の中では外様ながら、家康に次ぐ最高権力を手にするまでに至った大久保長安。ひとえに、理財の実務能力が役に立ったことは疑いようがありません。

ただし、その晩年と子孫に襲った悲劇は会計人材にとって良い教訓。権力を、富を握るものほど清廉潔白でコンプライアンス重視しなければ、足元をすくわれるということでしょう。

第1位 戦国の「歩くそろばん」武将 

長束正家(1562年〜1600年)

長束正家(出典:Naverまとめ)

石田光成同様、長束正家も豊臣政権における5奉行の1人。5奉行の中でも特に財政を担当しており、今回取り上げた戦国大名の中でも「経理の力」は随一

戦国における経理の天才、長束正家は、もともと織田信長の側近大名であり、織田家におけるナンバー2の地位にあった丹羽長秀に仕えていました。

織田政権内において丹羽長秀はどちらかというと裏方仕事で活躍していましたが、その秘密は、経理の天才であった長束正家を抱えていたために可能であったと考えられています。豊臣政権下でも丹羽長秀は大大名として生き延びますが、長秀が亡くなるまで、長束正家の存在は隠されていたようです。

長秀没後、丹羽氏は秀吉によって、所領の大半を没収されてしまいます。この際に秀吉による財政不正への糾弾(所領没収のためのイチャモン)に対し、長束正家は帳簿をもって抵抗したと伝えられています。まさしく会計人材の鑑のような活躍ぶりです。

その後、卓越した経理能力を買われ豊臣家の直参に取り立てられます。豊臣秀吉といえば、全国の収穫高を一斉調査した太閤検地で有名ですが、その実務を取り仕切ったのが長束正家です。長束検地と呼ばれてもよかったくらいですね。

そのほか、秀吉の天下取り最終章である小田原北条氏の討伐や朝鮮出兵の際は、ロジスティックを担当しその実務能力をいかんなく発揮。

考えてみれば、パソコンも電卓もない時代に、数十万の兵士をつつがなく外国へ送り出し、かつ数年も食べさせていくには相当緻密な計算能力が必要だと考えられます。この功績もあり石高は次第に加増され、ついには12万石の大名にのし上がります。

ところが、人生とは諸行無常。

関ヶ原では同僚の石田三成方に加担したことで、運命は暗転します。関ヶ原の惨敗の末に自領内の寺社に追い込まれた長束正家は、自害して果てます。齢39。

一説には、理財能力が頭抜けて高い一方で、政治へは頓着せずコミュニケーション能力に少々問題があったとも。現代でも実務に秀でた専門職に多いタイプかもしれませんね。

どんなに専門知識があっても、コミュニケーションやある程度の世渡り術は心得ておきたいところ。

そろばん一つで万石の大名にのし上がったものの、若くして失脚した長束正家、会計人材として学ぶことは多そうです。

残念ながら、今回紹介した「会計経理の力」で出世した戦国武将は、みな非業の死を遂げています。今を生きる会計人は、彼らの人生を教訓に幸せな生を遂げたいものですね。

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